京都市電の話

烏丸車庫優遇疑惑?

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 昭和37年9月29日付の京都新聞に、南区在住の大学生からこんな投書がありました。

「私は市電の丸太町線、烏丸線を利用して、大学に通っています。ところが錦林車庫所属の電車は新型の700型が大変少なく、他の車庫に多いのはどういうわけですか。中でも烏丸車庫に多いようです……」

 当時700型は43輌在籍しており、その内訳は九条10輌、烏丸20輌、みぶ8輌、錦林5輌と、確かに烏丸車庫に多く配属されていました。さらに同年度には700型が5輌増備されましたが、これも全て烏丸車庫に配属されました。しかも同車庫では700型の増備と引き換えにそれまで配属されていた600型をみぶへ、800型を九条へ、1000型を錦林へそれぞれ転属させてるんですね。つまり、烏丸車庫は自車庫に新車を入れるかわりに、他車庫へ在来車をまわしてたんですね。
 なぜ烏丸車庫にだけ新車が片寄るのか、交通局から明確な答はありませんでした。ただ「どの車庫の電車もほとんど市内全域を走るので、烏丸だけに新車が増えても市民サービスが特に不公平になるとは考えない」と説明されていました。

 この件とは全く別の話ですが、昭和40年代に市電がワンマン化された時、2000型、2600型、1900型は全て烏丸車庫に配属された一方、小型の1600型は一度も同車庫に配属されることはありませんでした。これも「優遇」と見ていいのでしょうか……。

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明治150年 京都の交通事始め

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 昨日は900型を完成させてから、梅小路公園市電展示室の企画展「京都の交通事始め」へ行って来ました。この種の企画展では毎回貴重な写真や切符の類を見られるのが非常に楽しみなんですが、今回もブルー塗装でワンマン運転中の2600型や、山鉾巡行の日の四条烏丸で架線を外した区間で止まってしまった700型を警察官や交通局係員が総出で押すシーンなど、興味深い写真がたくさんありました。その後市電広場も覗いてみましたが、先週末につけられていた廃止40周年の花輪は外されていました。
 この企画展を見て、また市電の模型を作りたくなりました。そこで保存車輌のディティール写真を撮影して帰りました。実はもうその日の夜から早速作り始めたんですが、詳しくはまた日を改めて報告したいと思います。

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 最後におまけの写真です。
 実は今日の午後、昔の市電の記事を調べに図書館へ行って来たんですが、岡崎公園の1860には廃止40周年の花輪がまだつけられていました。

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あれから40年

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 今から40年前の今日、京都の街から市電がなくなりました。もう京都でも市電を知っている人は少なくなって、市電の話ができなくなった(話をしてもわからない人が多くなった)のは時の流れとは言え寂しい限りです。

 当時の私も前年の河原町線、七条線廃止あたりから集中的に市電の撮影を続けてきました。そして全廃の夜は、烏丸車庫で最終の⑥と㉒の装飾電車(花電車ではありません。理由は後述します)を撮影した後、タクシーで京都駅へ先回りして折り返しの⑥を撮影しました。ただ当時の未熟さゆえにあまりいい写真は撮れませんでしたが……。

 ところで、今私は最後の市電を「花電車」ではなく「装飾電車」と書きましたが、実はこれには非常に悲しい理由があったんです。あまり書きたくない話ですが、市電の歴史を正しく残すためにもここでお話ししようと思います。

 実は全廃の一週間ぐらい前から交通局では造花や電飾などをつけた花電車を20輌程度走らせる計画を立てていました。赤字が極限に達していた市電でしたが、電飾にスポンサーなどをつけて、その広告収入で費用は賄えると考えていたようです。ところがその後市議会で「なくなる物に金をかけるのはもったいない」という批判が出て、花電車は中止になりました。それで結局は看板と花輪だけの装飾電車になったわけですが、考えてみればこの手の装飾は昔は選挙の前なんかにもつけられていましたからね……。

 長々と書いてしまいましたが、今後は消えた市電を模型で残していきたいと思っています。ちなみに現在、900型を製作しているのですが、詳細はまた追って発表します。

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炎熱地獄 市電のレール曲がる

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 いつの間にか、今月末で京都市電が全廃されて40年になるんですね。そこで、と言う訳ではありませんが、久しぶりに京都市電の話をしてみたいと思います。

 昭和37年7月22日の京都市内は太平洋高気圧の影響で終日快晴に見舞われ、午後3時40分頃には最高気温が37.2℃と、当時としては史上2番目の暑さを記録しました。この時、市電河原町線の河原町五条~河原町正面間の北行き軌道はレール交換のため敷石が一時的に撤去されていました。それがこの暑さのせいで約10mにわたって5cmぐらい浮き上がって、さらにはくの字状に曲がってしまったんですね。 
 交通局の保線係が現場に駆け付けて、伸びたレールを約3cmずつ切断して応急修理をしましたが、市電は運転を見合わせることもなく、なんとくの字状になったレールの上を徐行運転で通過していたそうです。現代では全く考えられない話ですが、これによる事故は全くありませんでした。

 それから本題とは関係ありませんが、この昭和37年は四条通で阪急京都線の延長工事が行われていたため、祇園祭の山鉾巡行が中止になりました。そのため、当日の市電の部分運休はありませんでした。

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③系統の謎を追え!

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 前回の拙ブログで軽便市電に③の系統板をつけましたが、今回は京都市電③系統にまつわる個人的思い出話をしたいと思います。

 きっかけは子供の頃、中田安治著『路面電車』(保育社カラーブックス)に掲載されていたポール時代の京都市電1000型の写真でした。同車には③の系統板がつけられていたのですが、当時の私が持っていた資料には全く記載がなく、どんなルートだったのか子供心に大きな謎でした。この写真には祇園祭の鉾が写っていたので、四条線を走っていたことはわかるのですが、一方で河原町線を走る③系統の写真を見たこともあって、謎は深まるばかりでした。

 その謎が解けたのは、昭和29年2月27日付の京都新聞に掲載された白川線開通の広告でした。これに新線関連の系統図が出ていたのですが、その前に開通前の関連系統を書きますと、 

②;西大路九条~円町~天王町
③;京都駅~河原町今出川~銀閣寺道
⑬;四条大宮~祇園~百万遍~銀閣寺道

 このうち②と③が白川線開通によって終点から次のように延長されることになりました。

②;~天王町~銀閣寺道~河原町今出川~四条河原町
③;~天王町~くまの~祇園~四条大宮

 この延長に伴い、⑬系統は③系統と統合される形で廃止になりました。中田氏の著書の写真はこの白川線開通直後のものと思われます。ちなみに当初はまだ錦林営業所が開設されておらず、これら三つの系統は全て壬生の所属でした。

 その後昭和30年1月16日に錦林営業所が正式に開設されると、③系統の京都駅~銀閣寺道間が②系統のルートになり、③系統は銀閣寺道~天王町~くまの~祇園~四条大宮~千本北大路~烏丸車庫~烏丸今出川~河原町今出川~四条河原町に変更になりました。しかし翌年の下鴨線開通による系統変更で③系統は廃止され、以来、③は欠番のままになりました。余談ですがこの下鴨線開通で高野方面から四条河原町へ直通する系統が新設されましたが、この時欠番だった⑬が割り当てられることになりました。

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~市電の音が聞こえる風景~

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 昨日の夕方、ひと・まち交流館京都の『古写真から見た昭和京都の生活~市電の音が聞こえる風景~』に行って来ました。閉館間近でしたが貴重な写真の数々を見られた上、来場されていた方々と市電に関する昔話をすることもできて、楽しい時間を過ごすことができました。特にツーマン車の写真にはその背景にある街並みと共に模型熱をかき立てられてしまいましたね。これでまたレイアウトの改修工事に力が入りそうです。

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本当の最終電車は……(京都市電の話)

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 今から38年前の今日、京都市電が全廃になりました。当日は私も最終電車を追いかけて烏丸車庫から京都駅をまわった後、最後は岡崎公園前で⑥系統の最終電車を見送りました。
 そして帰ろうとしたところ、北の方から電車の来る音が聞こえてきたんですね。しばらくしてやって来たのは1800型の回送でした。片付けたカメラをあわてて引っぱり出して撮影した後、少し間をおいてまた1800型の回送が来たんですね。終電車は行ってしまいましたが、それからも私はしばらく電停でこの回送を撮影していました。

 後から知ったのですが、終電終了後に烏丸車庫の市電が九条車庫に回送されたようで、最終電車となった1900型3輌も営業運転終了後、午前1時過ぎに烏丸車庫から九条車庫へ回送されたそうです。となると本当に市電が運転を終えたのは10月1日の午前2時前ぐらいではなかったかと思われます。ただ全廃の翌日、動かなくなった市電を見に車庫へ行かなかったのは今になって悔やまれます。今更悔やんでも仕方ありませんが、これからは模型であの頃を再現していきたいと思っています。

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電車教室と電車児童館(京都市電の話)

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 1950年代、廃車になった京都市電200型や300型の車体が教室や児童館に転用されました。そこで今回はいつ頃どこに転用されていたのか、昔の京都新聞の記事から私が知り得た情報を発表させて頂きたいと思います。

住吉幼稚園(伏見区仲之町) 325 電車教室として使用(1953.9.24)
尚徳幼稚園(下京区) 200型2輌 電車教室として使用(1954.4.14)
楊梅幼稚園(下京区鍵屋町新町東入ル) 車番不明 電車教室として使用(1954.6.6)
竹間幼稚園(中京区竹屋町通間之町) 200型又は300型4輌 電車教室として使用(1955.5.8)
かすが児童館(南区西九条春日町 春日児童公園内) 車番不明(1955.12.6)
樫原児童館「仲よしの家」(樫原府営住宅内) 車番不明(1957.6.17)

 最後のカッコ内は京都新聞に掲載された日付です。
 また1950年9月30日付の京都新聞には、銀閣寺道電停前に500型の廃車体を改造した乗務員休憩所の写真が掲載されていました。車番は不明ですが小型化された514~517の元の車体ではないかと思われます。

 廃車体の転用はまだまだ存在していたかと思われます。今後も調査を続けて、また発表していきたいと思っています。                 

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市電1000台計画(京都市電の話)

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 今から38年前の今月末、京都市電が全廃になりました。そこで、と言う訳ではありませんが、今回は市電の話をしてみたいと思います。

 昭和30年前後は正に戦後の市電全盛期でした。白川線や下鴨線などの路線延長や800型や900型など新車の増備も活発で、「走れば儲かる」ような時代でした。 
 そんな中で昭和31年、京都市交通局から十ヶ年計画が立案されました。計画の中心はトロリーバスの拡大で、総工費30億円を投じて堀川通や五条通の他、北山通や嵐山、久世橋方面へも路線を延ばしていくというものでした。

 そしてトロバスの拡大と並行して計画されていたのが表題の「市電1000台計画」でした。これは当時の市電の車輌数340輌を徐々に増備していって、常時1000台を運行するというものでした。これによりいつでも待たずに乗れて、しかも座れる市電を目指していたんですね。これを交通局では「水平に走るエスカレーター」と称していました。

 この計画は残念ながら頓挫しましたが、もし市電1000台計画が実現していたら、市街地は常に市電が数珠つなぎ状態になっていたでしょうね。さらに付け加えるなら、当時の市電の車庫はとても1000輌も収容できないので新しい車庫の新設もしくは既存の車庫の拡張なども行われたのではないでしょうか。車輌に関しても新形式が登場していたでしょうし、京都の街並みもどんな風になっていたか、興味が尽きないですね。

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市電の写真展

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 今日は午後から上京区の町家シェアオフィスへ「神谷潔 市電の写真展」を見に行って来ました。ここでは思いがけず同好の方々と昔の鉄道の話がはずんで非常に楽しい時間を過ごすことが出来ました。また昭和初期のものと思われる市電の路線図のコピーが展示されていたのですが、そこには東山線の通りが「東山通」と記されていたんですね。これを見た時、以前の拙ブログ「東山線考」は間違ってなかったと改めて思いました(非常に個人的な話ですが)。
 ともあれこの会場で展示されていた写真や同好の方々との話に、市電の模型製作熱や研究熱が高くなった一日でした。

 

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