京都市電の話

③系統の謎を追え!

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 前回の拙ブログで軽便市電に③の系統板をつけましたが、今回は京都市電③系統にまつわる個人的思い出話をしたいと思います。

 きっかけは子供の頃、中田安治著『路面電車』(保育社カラーブックス)に掲載されていたポール時代の京都市電1000型の写真でした。同車には③の系統板がつけられていたのですが、当時の私が持っていた資料には全く記載がなく、どんなルートだったのか子供心に大きな謎でした。この写真には祇園祭の鉾が写っていたので、四条線を走っていたことはわかるのですが、一方で河原町線を走る③系統の写真を見たこともあって、謎は深まるばかりでした。

 その謎が解けたのは、昭和29年2月27日付の京都新聞に掲載された白川線開通の広告でした。これに新線関連の系統図が出ていたのですが、その前に開通前の関連系統を書きますと、 

②;西大路九条~円町~天王町
③;京都駅~河原町今出川~銀閣寺道
⑬;四条大宮~祇園~百万遍~銀閣寺道

 このうち②と③が白川線開通によって終点から次のように延長されることになりました。

②;~天王町~銀閣寺道~河原町今出川~四条河原町
③;~天王町~くまの~祇園~四条大宮

 この延長に伴い、⑬系統は③系統と統合される形で廃止になりました。中田氏の著書の写真はこの白川線開通直後のものと思われます。ちなみに当初はまだ錦林営業所が開設されておらず、これら三つの系統は全て壬生の所属でした。

 その後昭和30年1月16日に錦林営業所が正式に開設されると、③系統の京都駅~銀閣寺道間が②系統のルートになり、③系統は銀閣寺道~天王町~くまの~祇園~四条大宮~千本北大路~烏丸車庫~烏丸今出川~河原町今出川~四条河原町に変更になりました。しかし翌年の下鴨線開通による系統変更で③系統は廃止され、以来、③は欠番のままになりました。余談ですがこの下鴨線開通で高野方面から四条河原町へ直通する系統が新設されましたが、この時欠番だった⑬が割り当てられることになりました。

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~市電の音が聞こえる風景~

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 昨日の夕方、ひと・まち交流館京都の『古写真から見た昭和京都の生活~市電の音が聞こえる風景~』に行って来ました。閉館間近でしたが貴重な写真の数々を見られた上、来場されていた方々と市電に関する昔話をすることもできて、楽しい時間を過ごすことができました。特にツーマン車の写真にはその背景にある街並みと共に模型熱をかき立てられてしまいましたね。これでまたレイアウトの改修工事に力が入りそうです。

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本当の最終電車は……(京都市電の話)

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 今から38年前の今日、京都市電が全廃になりました。当日は私も最終電車を追いかけて烏丸車庫から京都駅をまわった後、最後は岡崎公園前で⑥系統の最終電車を見送りました。
 そして帰ろうとしたところ、北の方から電車の来る音が聞こえてきたんですね。しばらくしてやって来たのは1800型の回送でした。片付けたカメラをあわてて引っぱり出して撮影した後、少し間をおいてまた1800型の回送が来たんですね。終電車は行ってしまいましたが、それからも私はしばらく電停でこの回送を撮影していました。

 後から知ったのですが、終電終了後に烏丸車庫の市電が九条車庫に回送されたようで、最終電車となった1900型3輌も営業運転終了後、午前1時過ぎに烏丸車庫から九条車庫へ回送されたそうです。となると本当に市電が運転を終えたのは10月1日の午前2時前ぐらいではなかったかと思われます。ただ全廃の翌日、動かなくなった市電を見に車庫へ行かなかったのは今になって悔やまれます。今更悔やんでも仕方ありませんが、これからは模型であの頃を再現していきたいと思っています。

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電車教室と電車児童館(京都市電の話)

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 1950年代、廃車になった京都市電200型や300型の車体が教室や児童館に転用されました。そこで今回はいつ頃どこに転用されていたのか、昔の京都新聞の記事から私が知り得た情報を発表させて頂きたいと思います。

住吉幼稚園(伏見区仲之町) 325 電車教室として使用(1953.9.24)
尚徳幼稚園(下京区) 200型2輌 電車教室として使用(1954.4.14)
楊梅幼稚園(下京区鍵屋町新町東入ル) 車番不明 電車教室として使用(1954.6.6)
竹間幼稚園(中京区竹屋町通間之町) 200型又は300型4輌 電車教室として使用(1955.5.8)
かすが児童館(南区西九条春日町 春日児童公園内) 車番不明(1955.12.6)
樫原児童館「仲よしの家」(樫原府営住宅内) 車番不明(1957.6.17)

 最後のカッコ内は京都新聞に掲載された日付です。
 また1950年9月30日付の京都新聞には、銀閣寺道電停前に500型の廃車体を改造した乗務員休憩所の写真が掲載されていました。車番は不明ですが小型化された514~517の元の車体ではないかと思われます。

 廃車体の転用はまだまだ存在していたかと思われます。今後も調査を続けて、また発表していきたいと思っています。                 

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市電1000台計画(京都市電の話)

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 今から38年前の今月末、京都市電が全廃になりました。そこで、と言う訳ではありませんが、今回は市電の話をしてみたいと思います。

 昭和30年前後は正に戦後の市電全盛期でした。白川線や下鴨線などの路線延長や800型や900型など新車の増備も活発で、「走れば儲かる」ような時代でした。 
 そんな中で昭和31年、京都市交通局から十ヶ年計画が立案されました。計画の中心はトロリーバスの拡大で、総工費30億円を投じて堀川通や五条通の他、北山通や嵐山、久世橋方面へも路線を延ばしていくというものでした。

 そしてトロバスの拡大と並行して計画されていたのが表題の「市電1000台計画」でした。これは当時の市電の車輌数340輌を徐々に増備していって、常時1000台を運行するというものでした。これによりいつでも待たずに乗れて、しかも座れる市電を目指していたんですね。これを交通局では「水平に走るエスカレーター」と称していました。

 この計画は残念ながら頓挫しましたが、もし市電1000台計画が実現していたら、市街地は常に市電が数珠つなぎ状態になっていたでしょうね。さらに付け加えるなら、当時の市電の車庫はとても1000輌も収容できないので新しい車庫の新設もしくは既存の車庫の拡張なども行われたのではないでしょうか。車輌に関しても新形式が登場していたでしょうし、京都の街並みもどんな風になっていたか、興味が尽きないですね。

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市電の写真展

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 今日は午後から上京区の町家シェアオフィスへ「神谷潔 市電の写真展」を見に行って来ました。ここでは思いがけず同好の方々と昔の鉄道の話がはずんで非常に楽しい時間を過ごすことが出来ました。また昭和初期のものと思われる市電の路線図のコピーが展示されていたのですが、そこには東山線の通りが「東山通」と記されていたんですね。これを見た時、以前の拙ブログ「東山線考」は間違ってなかったと改めて思いました(非常に個人的な話ですが)。
 ともあれこの会場で展示されていた写真や同好の方々との話に、市電の模型製作熱や研究熱が高くなった一日でした。

 

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「東山線」考(京都市電の話)

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 京都の地名の話です。例えば西大路通と三条通の交差点は「西大路三条」、烏丸通と今出川通の交差点は「烏丸今出川」と、東西の通りと南北の通りの名前を組み合わせた名称になってます。ところが東大路通に限っては「東大路○○」ではなく「東山○○」なんですね。ちなみに現在の市バスの行先表示で「東山通」とあるのは地元の人が習慣的に使っている俗称のようなもので、正確には「東大路通」なんです。

 話がややこしくなってしまいましたが、かつて東大路通を走っていた市電は「東山線」でした。市電の路線名は伏見線を除いて敷設されている通りがそのまま線名になっていましたが、東大路通だけがなぜ東大路線ではなく東山線になったのでしょうか。

 東山線が最初に開通したのは大正元年12月、東山三条~渋谷通(現在の馬町)間でしたが、当時の道路名はどうも「東山通」だったようなんですね。それが昭和になって市電の西大路線が開通した時、西大路通に対して東山通を「東大路通」に改称したと思われるフシがあるんです。でも地名と市電の線名は「東山」のまま残されて、それが現在まで続いているんですね。

 この東山通は市電のあった頃は「東山線通」と呼ばれていたこともあったようで、現在でもお年寄りの中には東山通を「東山線」と呼んでいる方もいらっしゃいます。市電の路線名がそのまま通りの名称になっていたのは、それだけ市電の存在意義が大きかった証だと思います。
 と言うことで最後に昔撮影した東山線の市電の写真を掲載させていただきます。

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終車通過時刻表を見て(京都市電の話)

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 京都・岡崎の市電コンシェルジュ車内には、昭和45年伏見線廃止直後のものと思われる電車案内図と終車通過時刻表が展示されています。いずれも複製品らしいのですが、この終車通過時刻表を見ていて気付いたことなんかを今日は書いてみたいと思います。

 まず、錦林車庫発23:16の西大路九条行き、②系統の最終ですが、同車は熊野神社前発23:21、河原町丸太町発23:24、烏丸丸太町発23:27と、丸太町通を西走していきます。そして千本丸太町を23:33に発車する時点で、行先が九条車庫に変わっているんですね。以降同車は九条車庫行きとなって円町発23:36、西大路四条発23:41、西大路七条発23:46、西大路九条発23:51とたどって、九条車庫には24:00頃に到着すると思われます。
 本来②系統は西大路九条が終点なんですが、この終電だけが九条車庫まで延長されていたのは正直驚きでした。これは私の推測ですが、西大路九条から錦林車庫に戻るとなると午前0時をはるかにオーバーしてしまうので、近くの九条車庫で停泊させていたのではないでしょうか。もしそうだとすると、初発の②系統は九条車庫始発だったかも知れませんね。

 それともう一つ。銀閣寺発23:32の千本丸太町行きが、23:43に熊野神社前を発車する時には壬生行きになってるんですね。同車はこの後河原町丸太町発23:46、烏丸丸太町発23:49と進んで千本丸太町から千本線に入りますが、このルートは通常の系統にはないんですよね。おそらく⑳系統の終電が壬生車庫に入庫するための臨時経路だと思われますが、詳細を御存知の方がいらっしゃいましたら御教示いただきたいと思います。

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岡崎に市電の案内所?

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 昨日届いた「きょうと市民しんぶん」に出ていた記事ですが、年内に市電の車輌を活用した案内所が岡崎に設置されるそうです。岡崎のどこに設置されるか、具体的な場所は書かれていませんでしたが、案内所となる車輌は現在大宮交通公園に保存されている1860を改修するようです。
 そこで今日の午後、大宮交通公園に行ってみましたが、1860はまだ保存されていました。でも市民しんぶんの記事が事実なら、1860が交通公園で見られるのもそう長くないかも知れないですね。今でも比較的原型を保っている同車がどのように変わってしまうのか、気になるところです。

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市電、嵐山へも直行!?(京都市電の話)

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毎度ご乗車ありがとうございます。

 今日は久しぶりに京都市電の話をしてみたいと思います。

 昭和20年代、宝ヶ池競輪場への観客輸送のため市電が叡電山端(現在の叡山電車宝ヶ池)まで直通運転していたのは有名な話ですが、実はこの頃、市電を嵐電の嵐山まで乗り入れる計画も進められていたんですね。
 昭和24年10月13日付の京都新聞によりますと、宝ヶ池競輪場への観客輸送について京都市交通局と京福電鉄が協議を続けた結果、叡山線だけでなく嵐山線でも市電の乗り入れを行うことで話し合いがついたそうです。これによると市電が嵐山まで直通する他、嵐電も西大路三条から京都駅まで乗り入れる計画で、叡山線に乗り入れた市電も山端ではなく八瀬まで直通することになっていたようです。さらに京福電鉄側としては、西大路三条から市電の路線を経由して叡山線への車輌の回送も希望していて、昭和25年の4月ぐらいには嵐電との相互乗り入れが実現するだろうというものでした。
 ちなみにこの頃にはすでに元田中では市電と叡電の連絡線の建設工事は始まっていました。それからご存知の方も多いと思いますが、当時叡山線も嵐山線も同じ京福電鉄でした。

 市電全廃が決まりかけていた頃、一部のマニアの間で夢として語られていた市電と嵐電の相互乗り入れは現実のものになりかけてたんですね。これがどういう経緯で中止になったのかわかりませんが、実現していたら市電の歴史も変わっていたかも知れませんね。

 と言うことで今日の写真は昭和52年冬に撮影した雪の市電です。不鮮明かつ本日の話と直接関係のない写真ですみません(笑)

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